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化粧がなかった時代、肌を飾ることは誰のための行為だったのか

公開日:2026-11-05

化粧がなかった時代、肌を飾ることは誰のための行為だったのか

ファンデーション・口紅・アイライナー。現代の化粧品は多様化したが、肌を塗り飾る行為は古代から続く人間の表現だった。

朝の洗顔の後、鏡の前でファンデーションを塗る。

この行為はごく日常的なものだが、化粧という行為はどこから来たのだろうか。美しく見えるためか、儀礼や役割を示すためか、肌を守るためか。化粧の歴史は、その目的の変化の歴史でもある。

今、当たり前にあるもの

現代の化粧品市場は年間数兆円規模で、スキンケア・ベースメイク・ポイントメイク・フレグランスなど多様なカテゴリがある。化粧品は安全性と有効性を確認する規制のもとで製造・販売され、肌への負担を最小化した処方が当たり前になっている。

化粧は女性だけのものではなく、男性向けコスメ・ジェンダーニュートラルな化粧品市場も成長している。

それがなかった時代

化粧の歴史は古代文明にまで遡る。

古代エジプトでは目の周りにコールという黒い粉(酸化鉛や硫化アンチモン)を塗る習慣があり、美容目的だけでなく強い日差しや虫から目を守る実用的な意味もあったとされる。古代ギリシャ・ローマでは鉛白(白鉛)を肌に塗って肌を白くする化粧が行われていた(この鉛白は毒性が高く、長期使用で健康被害が起きることが後に判明した)。

日本では奈良時代に中国文化が入り、白粉(おしろい)・紅(べに)・眉墨を使う化粧が宮廷に広まった。平安時代には貴族女性の「お歯黒(おはぐろ)」と「引き眉(眉を剃って高い位置に描く)」が上流文化として確立した。これは美のためであると同時に、身分や役割を示す社会的なシグナルでもあった。

どう変わってきたか

江戸時代に化粧は庶民にも広がった。白粉・紅・眉墨が商品として売られ、化粧の指南書まで出版された。白粉は米ぬかや鉛を材料としていたが、鉛白は毒性が問題で、江戸中期以降は白米の粉(米粉)を使ったものに移行した。

明治以降の近代化の過程で、西洋の化粧文化が入り「舶来化粧品」が珍重された。大正時代に資生堂などの国産化粧品メーカーが誕生し、昭和初期には女性雑誌を通じてモダンな化粧文化が広まった。

戦後の高度成長期に化粧品が大衆化し、デパートのコスメカウンターが女性の「化粧相談の場」として機能した。1960〜70年代に資生堂・カネボウ・コーセーなど国産大手が確立し、現在に続く日本の化粧品産業の基盤が作られた。

化粧が変えた顔の意味

化粧は「素顔」と「化粧した顔」の間に距離を作る。

その距離をどう解釈するかは時代によって変わってきた。「本当の自分を隠す行為」とする見方もあれば、「自分を表現する創造的な行為」とする見方もある。現代では「素の肌を見せるのが誠実」というナチュラルメイクの流行と、「アートとしての濃いメイク」の流行が同時に存在している。

肌に何かを塗ることで自己を表現しようとする衝動は、数千年の歴史を持つ。現代の化粧品はその延長線上にある。

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